人生は再生の物語である。

59歳無職から還暦のリアルへ。

東京の距離感

 暑いので昼間はできるだけ外出しないようにしているが

日が落ちてから散歩に出る。

 

メルカリの発送がある日はそれを済ませてから30分程度歩く。

それが今のルーティンだ。

 

マンションを出てどうやって歩くかはだいたい決まっているが

その日の気分であまり歩かない道を歩いたりもする。

 

狭いスペースにマンションや一軒家が連なっているところも多い。

 

細くて入り組んだ道を歩きながら感じるのは

どんな道でもそこには誰かしら歩く人がいて

車が頻繁に通っていくことである。

 

とにかく人や車が通らない道などない。

 

どこに行っても多くの人が歩いたり車が横切っていく。

 

東京ってやっぱり人が多いのだ。

 

歩きながらいたるところで何度もそれを感じる。

 

だから、気が抜けない。

 

そして当たり前だが

すれ違う多くの人と言葉を交わすことはほとんどない。

 

いや、なるべく人とはかかわらずにいることが大事だというルールが

自然に身についているからそのことに疑問さえ持たない。

  

かなり昔から弁当を買いにいっているパン屋がある。

 

そこはパンより弁当やおにぎりの方が人気なのか

時間がずれると売り切れになるので

食べたい日には電話して取り置きしてもらうことにしている。

 

何度そこに電話をしたり買いに行ったりしているか

もうわからないくらいなのだが

レジで支払いをするときにいつも感じる空気がある。

 

レジは決まって年配の女性かその息子さんのどちらか。

二人とも決まって愛想のよい笑みなのだが

どことなく無表情で事務的である。

 

悪い印象を与えるものではもちろんない。

だが、何度その店に行っても

弁当以外のモノをそれなりに買っても

それに変化はなく、特別な会話などは一切ない。

 

たとえ私が明日から急に来なくなっても

店としては全く困らないだろうし

こっちも義理もないので気楽と言えば気楽な関係なのだが

何度も行っている店であるからこそ

何年に1回かぐらいの割合で

その空気と距離感に何となく物足りなさを感じることがある。

 

またある事情があって

月一で必ず大量のパンを買う店が別にあるのだが

そこでも同じような空気を感じたりする。

 

この前も一緒に行った妻が、

そこに何となく納得いかないものを感じていたようだ。

 

正直に言えば

予約してそれだけたくさんのパンを買っているのだから

少しぐらいオマケをつけてくれてもいいじゃないか、

というような邪心が私にないわけでもない。

いや、それがあればもちろん嬉しいけど

それより何より、もう少し喜んでほしい、

その喜びがこっちに伝わってこないかな、

というような感じなのだ。

 

そこに心のようなものを感じたいと思うのは

客としてちょっと言いすぎな身勝手なことなんだろうか?

 

期待したら裏切られる。

 

だから必要以上の感情は持たないようにする。

 

人との距離は必ず持つ。

 

それが、東京の距離感、なのだと

少し気を取り直してから自分に言い聞かせる。

 

 

東京に生まれてずっと住んでいる人が言ったあるセリフを

ふと思い出すことがある。

 

「東京の人は、さっぱりしている」

 

それがずっと心のどこかに残っているということは

これだけ長く東京に住んでいても

今なお東京の人になり切れていない自分を感じているのかもしれない。