人生は再生の物語である。

59歳無職から還暦のリアルへ。

メルカリを始める⑤~売ることと買うことの難しさ

 先日、友人のコンサートが国立で行われるというので

電車を乗り継いで出かけたのだが、

久しぶりに駅を降り立つと既にそこはちょっと違う雰囲気を醸し出していた。

 

特に駅を背にして一橋大学方面に向かう路は

ちょうど若葉の季節でもあり、セレブの匂いがプンプンしていた。

 

その道沿いで

ちょうどフリーマーケットの準備をしている人たちがいた。

 

フリーマーケットか・・・

 

私は興味こそあったもののやったことはなかった。

 

買ったことは・・・あったかな・・・それも思い出せないくらいだ。

 

会場まで急いでいたので垣間見えたわずかな風景で感じたのは

準備がタイヘンだな・・・

ということだった。

 

まず、出品する商品を選択する。

それについて値付けをして値札をつける。

会場までの運搬と限られたスペースでの展示。

 

売るまでに結構なエネルギーが必要なのは間違いない。

 

そして、いざ売るときも

単純に買ってくれるならいいけど値段交渉されたら

値引きして売ったりするんだろうな。

・・・となるとある程度は値付けも考えてやらないといけない・・・

 

それでも売れたら気分もいいだろうけど

売れなければ持って帰るときは結構辛いだろう。

 

最後は投げ売りなんかするのかな・・・

 

出店料も必要だったら差し引きでの利益計算もしなければならない・・・

 

もともと客商売などしたことがない人にはできるんだろうか?

 

やり取りを楽しめればいいけどイやなことだってあるだろう。

 

更に言えば、モノを展示していても見てくれるんだろうか?

通りに人が歩いていても興味を持ってくれるんだろうか?

 

歩きながらいろんな思いが錯綜した。

 

何となくだがかつてほどフリーマーケットに対する興味を

世間の人が持っていない気がするのは私だけだろうか。

 

かつては住んでるマンションの前でやっている人がいたり

いたるところでやっていたので

メディアでもさかんに取り上げられていたけど

既にピークは過ぎているんだろうな。

 

ゲーム感覚で売ったり買ったりできる人はいいのだけど

恐らく多くの人はそうじゃないだろうし、

結構タイヘンだから、続かないんだと思う。

 

そういったいろんな辛さやデメリットを解消してくれるのが

メルカリでは、ある。

だからここまで浸透しているのだろうが

もちろんイイことばかりではないし、

辛さもある。

 

売ることも買うことも生活の根源的な行為ではあるのだけど

メルカリを通じて

いざ自分が売る側になったり、

意識して買うことをするようになると

これはこれで結構なエネルギーがいることに気づいてしまった。

 

たとえば私たちはスーパーやコンビニで毎日何気なくモノを買っている。

 

それはメーカーや店舗の本部が値付けしたものを

安心して買うシステムがあるから、普通にできるのだ。

 

 その値段にも買うという行為にもまったく疑問を持っていない。

 

欲しいものが今までと同じ習慣の中で認識されている価格であれば

違和感を感じないで買うことができる。

 

もしも安ければもっと買う気持ちが増大するかもしれないし

高いと感じたら買わないで別のものを買うか

逆に高いが故にそれに興味を持って買うかもしれない。

いずれもそれができるのは

そこに安心できる価格や大前提として商品のシステム

が整備されているからである。

 

日常というのは

そういった安心感システムの中で

運営されているから

心の安定も維持できている。

 

そんな中、

スーパーだと賞味期限が近いものや在庫の関係などで

値引きされているものがあったりする。

 

値引きのルールにも

店ごとにノウハウや考え方が反映されているから興味深いが

これまた、

 担当者もそのやり方で迷ったり悩んだりすることもないはずだ。

 

何故ならその値引きが利益を損ねることになっても

シゴトとしてやっている限り、その人の責任ではないし

ただ売りさばくことに徹すればいいだけだからだ。

 

そう考えると

個人の店での値付けや値引きは自分次第でどうにでもなる代わりに

それが利益に直結するから神経も使うだろうし、

結構タイヘンなんだろうな。

 

客商売でモノを売る、

特に単価の安い、期限付きのものを売るのは

向き不向きもあるだろうし

カンタンでないことがよくわかる。

 

メルカリもこの個人店主のような側面があるのだ。

 

 単に売って、買ってではない

辛さや難しさ、そして面白さが、

間違いなくある。

 

そしてそこでまた

多くのことを学ぶことができる。

 

だから私も続いているのだろう。