人生は再生の物語である。

59歳無職から還暦のリアルへ。

老人のつぶやき

最近になって毎週、椅子太極拳に通うようになった。

 

椅子太極拳とは椅子に座ったまま太極拳を行うのだけど

これは造語なのかな?

 

シニアの方が利用する近所の施設で週に一度の割合で講座があって

それに参加しているのだ。

  

その施設に行くとビリヤードをやっている人がいたり

奥の座敷では囲碁か将棋をしている人たちもいる。

 

 

見渡す限り、私よりかなり年配の方が多い。

 

おそらく70代後半から80代ではないかと思う。

 

そこで何気に聞こえてくる話でよく耳にするのは、

 

「どうせ暇だから」

 

というセリフである。

 

暇である、の前に、「どうせ」がつく。

 

この一言が、かなりリアルな老人の日常を感じさせられる。

 

そういえば、

どの人も時間を気にしないで

そこにいる人ばかりのように見える。

 

自分も会社勤めをしているときは基本毎日が忙しかった。

 

週末や休暇など自由になる日数は自ずと限られているから

やりたいこともやらねばならないことも

そこにあわせてやるしかない。

 

うまく調整できることもあるし

できないこともある。

 

もともと自由になる時間には限りがあるから

全部できるわけでもなく

優先順位をつけてやらねばらないことから先にやるしかない。

 

それらで大半の時間は埋まってしまう。

 

だから、つい思ってしまう。

 

「もっと自由な時間が欲しい」

 

「やりたいことをやれる時間が欲しい」

 

私もそうだった。

 

だから会社を辞めてその自由な時間が目の前に用意されると

少なくとも何か別のことでそれが使えることで

もっと別の充実感を味わえるのではないか、

という淡い期待があった。

 

しかし、それは思ったより簡単ではないのだ。

 

やりたいことができるのに、思ったよりできていない。

 

平穏ではあっても充実感ではないだろう。

 

だからまだそれに戸惑っている自分がいる。

 

でもそれは仕方ない、とも思う。

 

働くことをやめて、すぐにやりたいこと中心の生活に

切り替えられたら確かにいいだろうが

そのためにも

もっと

もがかないといけないのではないか?

 

いろいろやりながら、もっと考えたり、感じたい。

 

あまり悩まずに

それを軽やかにやって

いつかどこかにたどり着きたいのだ。

 

だから

定年後もできる限り働いた方がいいと

再就職を勧める人もいるけど、

私はあまり興味がない。

 

決まった時間に仕事をしている限り

生活自体は安定するだろうが

それによって

何かを先延ばししているような気がしてならないからだ。

 

どうせ、生きている限りは、いつか死ぬ。

 

誰もが、死ぬまで生きなければならない。

 

働き続けることが自分の人生そのものだと確信している人もいるから

強く否定もできないが

 誰だっていつかは働くことから解放されるときがくるのだ。

 

そのときに何をやるのか。

 

ただ死を待つだけなのか?

 

それでいいのか?

 

ということなのだ。

 

たぶん

やりたいことが出来ないと思って働いていたのに

いざ働くことを辞めたとき、

やりたいことがわからなくなっている人が

ほとんどだろう。

 

そして、どうしようか思っているうちに

これでいいのだと思いながら

死を迎える。

 

私はまだはっきりとだが

それに抗いたいと思う自分を感じているのだ。

 

さて、

その施設で「どうせ暇だから」の次に聞くのは

 

「ボケたくないから」

 

というセリフだ。

 

歳を取ることは避けられないし受け入れるしかない。

 

そして、暇をつぶすために何かをすることもできる。

 

しかし、ボケたら終わり。

 

死を受け入れることはできても

ボケることだけは避けたいし、受け入れたくない。

 

それが人生最後の願いなのだろうか 。