人生は再生の物語である。

59歳無職から還暦のリアルへ。

夏にあきらめて

今朝いつものように産直野菜を売っている無人売り場に行くと

旗がなびいていてホッとしたのだが

目当てのキュウリは昨日に続いてなかった。

 

なす200円

ピーマン100円

 

もうこのままキュウリもないのかな?

 

結局ピーマンを2袋だけ買うことにした。

 

7月は大きなトマトが袋詰めされていて

カゴに山盛りになっていた。

 

夏のトマトは丸かじりがいちばん。

本当によく食べた。

 

しかしキュウリがないのは困る。

 

この前ネットで見たのだが

キュウリを毎日食べると健康にもダイエットにもいいというので

晩酌の時に1本、味噌をつけて食べ始めたら結構イケる。

 

このまま食べようと思い始めていたところなのに・・・

 

でも季節が変わるととれる野菜も変わってくるのだろうし

"来ないと何があるのかわからない”ここにくるのが

今年の夏のいちばんの思い出、だったのかもしれない。

 

今日で8月も終わりだ。

 

早い・・・・

本当に早い・・・・

 

明日から9月なんて本当に信じらない。

 

でも本当に暑かったな、この夏は。

 

毎朝汗まみれで出勤していたことが

何だか遠い昔のように感じられる。

 

いざ会社を辞めてどんな気分になるのか

少し楽しみではあったものの

もうひとつの会社に通うことなど

たぶんできない気がしている。

 

この夏は暑さが半端なかったから結果的に外出は最低限にした。

毎週月曜日の午後は椅子太極拳

それ以外では月イチの通院や

銀行や郵便局には行ったけど

あんなに通った渋谷の映画館にも行っていない。

 

以前は週末に車で遠出して買い物もしていたが

近場で済ませるようになったし

産直野菜の売り場をいくつか見つけたので

今まで以上に野菜中心の食生活になっている。

 

それとは別にほぼ毎日メルカリの発送があるので

コンビニには通っているし

雨が降らない限り夜30分の散歩も続けている。

 

 これから夏はこんな感じになるのだろうか?

 

まだ手探りで日々を過ごしながら

無理もしない代わりに

大きなドラマもない日常を過ごしている。

 

サラリーマン時代なら

何もいいことがなくても

またイヤなことがあっても

とりあえず毎月の給料で気分を相殺できていた。

 

そんなものだと毎月思うこともできたのだが

それがないせいかまだ何となく落ち着かない。

 

年金をもらうようになったら

その気分はまた違ってくるのだろうか?

 

まだそのあたりがわからない。

 

とにかく中途半端な気分である。

 

暑い中外出しないでいいのは確かに助かるけど

それでいいのかという思いがまだどこかにあるのだ。

 

夏祭りがあっても

踊らずに遠目で見ながら素通りしているような感じだ。

本当は踊りたいのに、

誰かが誘ってくれたらいいのに、

とかすかな期待を持ってそこに行ったのに

結局すぐに帰ってしまったような気分。

 

「夏をあきらめて」という曲があったな。

 

夏をあきらめて、か。

 

いや、夏にあきらめて、かも。

 

何かを諦めるために

この夏があったのか、なかったのか・・・

 

歳を取るって、こういうことなんだろうか。

 

そう思いながらこの夏が過ぎていく。 

 

 

 

胆力がない。

モノゴコロついたころからのライオンズファンである。

 

さすがに西鉄のときはおぼろげだが

その後の

太平洋クラブライオンズ

クラウンライターライオンズ」は

はっきりと覚えている。

 

 

西武が親会社になってライオンズは大きく変わったのだが

広岡と森が監督のときの日本一と黄金期は

自分が社会人になってからの青春時代とも重なって

輝かしいまま記憶に残っている。

 

あの頃は平日昼間に行われていた日本シリーズなど

仕事中でも気になって

会社の中のTV中継に夢中になったり

外出先などでもTVを探したっけ・・・。

 

ネットの無い時代で

当時は結果を知らせてくれる

球団の電話サービスなんかもあった。

 

今無職になってよかったと思うことの一つは

スカパーに加入している関係で

ほとんどの試合を最初から観戦できることだ。

 

TV観戦なら自宅でゆっくり晩酌しながら見れるし

帰りの心配もない。

 

特に今年のライオンズは10年ぶりの優勝に向かって

首位を走っているので

見る方もますます力が入っているのだが

実は困ったことが起きている。

 

ハラハラドキドキの展開になると・・・

 

・・・中継が見れなくなるのだ。

 

え?

 

どうして?

 

昨日も9回に逆転してサヨナラ勝ちしている。

 

前日も逆転勝ちである。

 

いずれも一番いいところを見ていない。

 

見れずにチャンネルを替えているのだ。

 

ハラハラドキドキに耐えられない・・・

 

いい歳をして何ということだ・・・

 

オレは子供か??

 

サヨナラで勝った瞬間などいちばんいいときを生中継で見ないで

その後のプロ野球ニュースで何度も見返す自分に

どうしてなのかと改めて問いかけるが実のところよくわからない。

 

正直言うと歳をとれば

野球のことなど無関心になっていくのかな、

どうでもいいようになるのかな、

とかすかに心配していた。

 

しかし、実際は逆である。

 

昔は楽しめたハラハラドキドキの試合展開が

耐えられずに見れなくなっている・・・

 

いちばんいいのは、大量点差で勝っている試合である。

もう逆転されることもないと安心できる試合が一番楽しめるのだ。

 

ファン以外楽しめない試合、無難な勝ち試合、それが一番いい・・・

 

これはどうしてなのか?

 

日々の生活の中でハラハラドキドキすることがなくなり

その分だけ精神力が弱くなっているのだろうか?

 

サラリーマン時代のように忙しいと

いろんなことに気持ちも分散されるから

野球どころではなくなるし、相対的には野球のことも小さくなる。

だからその分だけ勝っても負けてもその影響は小さいのではないか?

 

それとも若さがある分だけ何事にも向かっていく力や

モノゴトを受け入れる能力が自然にまだ備わっているのだろうか?

 

今の自分のように日々の生活の中に大きなドラマがなく

感情の起伏も変化がなくなると

人間は穏やかになるようで実はそうではない。

 

毎日の時間でガス抜きがされていないせいなのか

時としてささいなことで感情が爆発したり

コントロールできないときがあるのに自分でも驚くときがある。

 

いきなり怒り出す老人を目にすることがあるように

これも歳をとった人特有の現象なのだろうか?

 

何となくそれは

日々の生活の平穏さが影響しているような気がする。

 

もともと自分はセンシティブで気も小さいのだが

もっと鈍感力が必要なのかもしれない。

 

胆力という言葉を思い出した。

 

これからそれを目指したり

手に入れようとすることは遅いのかもしれないが

もっと強くなりたい、と改めて思う。

 

そう、今年の埼玉西武ライオンズのように。

 

 

 

 

老人のつぶやき

最近になって毎週、椅子太極拳に通うようになった。

 

椅子太極拳とは椅子に座ったまま太極拳を行うのだけど

これは造語なのかな?

 

シニアの方が利用する近所の施設で週に一度の割合で講座があって

それに参加しているのだ。

  

その施設に行くとビリヤードをやっている人がいたり

奥の座敷では囲碁か将棋をしている人たちもいる。

 

 

見渡す限り、私よりかなり年配の方が多い。

 

おそらく70代後半から80代ではないかと思う。

 

そこで何気に聞こえてくる話でよく耳にするのは、

 

「どうせ暇だから」

 

というセリフである。

 

暇である、の前に、「どうせ」がつく。

 

この一言が、かなりリアルな老人の日常を感じさせられる。

 

そういえば、

どの人も時間を気にしないで

そこにいる人ばかりのように見える。

 

自分も会社勤めをしているときは基本毎日が忙しかった。

 

週末や休暇など自由になる日数は自ずと限られているから

やりたいこともやらねばならないことも

そこにあわせてやるしかない。

 

うまく調整できることもあるし

できないこともある。

 

もともと自由になる時間には限りがあるから

全部できるわけでもなく

優先順位をつけてやらねばらないことから先にやるしかない。

 

それらで大半の時間は埋まってしまう。

 

だから、つい思ってしまう。

 

「もっと自由な時間が欲しい」

 

「やりたいことをやれる時間が欲しい」

 

私もそうだった。

 

だから会社を辞めてその自由な時間が目の前に用意されると

少なくとも何か別のことでそれが使えることで

もっと別の充実感を味わえるのではないか、

という淡い期待があった。

 

しかし、それは思ったより簡単ではないのだ。

 

やりたいことができるのに、思ったよりできていない。

 

平穏ではあっても充実感ではないだろう。

 

だからまだそれに戸惑っている自分がいる。

 

でもそれは仕方ない、とも思う。

 

働くことをやめて、すぐにやりたいこと中心の生活に

切り替えられたら確かにいいだろうが

そのためにも

もっと

もがかないといけないのではないか?

 

いろいろやりながら、もっと考えたり、感じたい。

 

あまり悩まずに

それを軽やかにやって

いつかどこかにたどり着きたいのだ。

 

だから

定年後もできる限り働いた方がいいと

再就職を勧める人もいるけど、

私はあまり興味がない。

 

決まった時間に仕事をしている限り

生活自体は安定するだろうが

それによって

何かを先延ばししているような気がしてならないからだ。

 

どうせ、生きている限りは、いつか死ぬ。

 

誰もが、死ぬまで生きなければならない。

 

働き続けることが自分の人生そのものだと確信している人もいるから

強く否定もできないが

 誰だっていつかは働くことから解放されるときがくるのだ。

 

そのときに何をやるのか。

 

ただ死を待つだけなのか?

 

それでいいのか?

 

ということなのだ。

 

たぶん

やりたいことが出来ないと思って働いていたのに

いざ働くことを辞めたとき、

やりたいことがわからなくなっている人が

ほとんどだろう。

 

そして、どうしようか思っているうちに

これでいいのだと思いながら

死を迎える。

 

私はまだはっきりとだが

それに抗いたいと思う自分を感じているのだ。

 

さて、

その施設で「どうせ暇だから」の次に聞くのは

 

「ボケたくないから」

 

というセリフだ。

 

歳を取ることは避けられないし受け入れるしかない。

 

そして、暇をつぶすために何かをすることもできる。

 

しかし、ボケたら終わり。

 

死を受け入れることはできても

ボケることだけは避けたいし、受け入れたくない。

 

それが人生最後の願いなのだろうか 。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

メルカリを始める⑯~モラルは必要なのか?

やっと夏の甲子園が終わった。

 

無職の身だから今年は決勝戦をゆっくり自宅で楽しんだのだが

昨今「甲子園の土」がメルカリで取引されることの是非が議論されている。

 

あの「甲子園の土」である。

 

まさかメルカリに出品されているとは・・・

 

細かくチェックしていないから何とも言えないが

「甲子園の土」は出場した選手が持ち帰って

そのまま出品しているのだろうか?

 

それとも誰かから譲ってもらったものが

捨てるに捨てられず

思い入れがないこともあって出品しているのだろうか?

 

高校球児にとって甲子園で野球をやるというのは大きな夢だから

試合に敗れて土をかきわけながら袋に入れるシーンは印象深いし

感動を呼ぶ。

 

それがメルカリに出されると

何となく違和感もあるということなのだろう。

 

しかし、これまたよくわからないけど

甲子園に出場した選手の全部が「甲子園の土」を

本当に欲しいと思って持ち帰っているのだろうか。

 

仮に持ち帰ったとしても

その後大切に取っている人がどれぐらいいるのかはわからない。

 

そのときは興奮して持ち帰っても

時間がたてばどうでもよくなるということだってあるだろう。

 

これはコンサートやイベントに行って

そのときは興奮してパンフレットを買っても

持ち帰ってから読み返すことなく

どこかに置かれたままになっているようなことにも似ている。

 

ひよっとしたら明らかに転売目的で

「甲子園の土」を持ち帰る選手もいるかもしれない。

 

でもそれは本人しかわからない。

 

メルカリのいいところは匿名での取引だから

誰が出品したかはわからないまま売買できる。

 

西城秀樹さんが亡くなったときも

葬儀で配られたものがメルカリで出品されて

同じようにニュースになっていくら何でもひどい、

という意見が出ていた。

 

確かにそうかもしれない。

 

 

だが何にしても手にしているものが必要ではないと

思えるときはいつかくるかもしれないのだ。

 

そのときはそうではなくても

時間がたてば気持ちも変わることだってあるし

それはその人にしかわからない。

 

今思い出したのだが

私もかつてある人のお別れの会にいったときに

配られたポストカードを

メルカリに出品したことがある。

 

かなり昔のことでもあったし

それが出てきてビックリしたぐらいだが

そのまま捨てるには忍びないし

欲しい人がいれば譲りたいと思って出品したのだった。

 

それは程なくして売れた。

 

私がそのまま捨てるより

どこかにしまっておくより良かったと思っている。

 

モラルがなかなか成立しない時代である。

 

「甲子園の土」もひとときの思い出にしかすぎないし、

ドラマは一瞬で終わる。

 

残された土は、ただの土である。

 

その人のドラマの一部であったとしても

時間が過ぎればどうでもいいものになるかもしれない。

 

それをかつては庭にでもまかれていたかもしれないが

今はメルカリがあるというわけだ。

 

それが他のモノと同じように出品されているだけである。

 

メルカリのルールを規制することにも限界があるだろうし、

メディアもこれだけ損か得かを煽っている以上

そこにモラルを持ち込むことはなかなか難しいかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

複雑な時代を生きる②~ただ食べたいものを食べたいだけ。

今年の夏はカルピスをよく飲んだ。

 

カルピスは、初恋の味・・・

 

子供のころから慣れ親しんだその味は

ヤクルトもそうだけど今も好き。

 

この夏はなくなる前に買い置きしていて

毎日のように飲んでいる。

 

しかしそのカルピスも店によって価格が違う。

 

いつも買っているスーパーだと

今ちょうどキャンペーン期間なのでたしか2本で470円なのだが

この前入った高級スーパーでは1本460円だった。

 

たぶんその店では値段など気にしないで

買いたいものをいくらでも買う客ばかりだろうから

そんなことどうでもいいのだろう。

 

でもちょっとビックリした。

 

1本と2本がほとんど同じ値段・・・

 

カルピスはドンキでもコンビニでも手に入るけど

価格はまちまちのようだ。

 

こういうとき、どこが一番安いかのセンサーが

つい働いてしまう。

 

同じモノならできるだけ安いところで買いたい。

 

今は働いていないし時間調整もできるので

妻と買い物に行く機会が増えたが

どの店に何があるか、何が安いのかの

情報がどんどん蓄積されている。

 

そんなの気にしないで過ごせばいいのかもしれないが

もともと些細なことに凝ることろがあるし

買い物は好きなのでそれを楽しんでもいる。

 

結果買い物も一つの店では終わらない。

 

いくつかの店を使い分けて、買うものも分散される。

 

時間がかかるし面倒でもあるけど、仕方ないのだ。

 

その町に一つの店しかないならそれも仕方ないし、

諦めもつくだろう。

でも多くの店が乱立して競争している東京ではそうならない。

 

どこにでもある商品でこんなにも価格が違うから

どこで買うかに結構なエネルギーを注いでしまう。

 

その上、カルピスのようにどこにでもある商品とは別に

自分なりにこだわって食べている、

なかなか普通の店ではおいていないモノも結構あるのだ。

 

そうなると、

それは置いてある店にわざわざ買いに行くことになる。

 

ざっと思いつくままに書くと

「チーズ」

「パスタソース(トマト味)」

「冷奴用の醤油」

「めんつゆ」

・・・・。

 

その店にしか置いていないモノは、もちろんそこに買いに行く。

 

それでも置いてる店がないことがあって

そんなときは見つかるまでしつこく探す。

 

ネットで注文してもいいけど

送料がかかったり大量注文するのもイヤなので

できるだけ置いている店を探す。

 

あるもので済ませたらどんなにか楽だろう。

 

でもそうしたくない。

 

複雑な時代だ。

 

要するに私は食べたいものを食べたいだけなのだ。

 

しかし、それがままならない。

 

それを続けているうちに

また美味しい別のものに出会うと

さらに上書きされていく。

 

その繰り返しが進歩や上達なのかもしれないが

いろいろなものが組み合わさって成立している今の時代は

楽しみと不幸がないまぜになってちょっと複雑な味にはなっている。

 

 

 

 

 

 

メルカリを始める⑮~またまた値引きに動揺。

週末、メルカリは快調で土曜日に4個、日曜日に3個と売れたので

1週間分7個は既に売れているのだが

月曜日の昨日はゼロだった。

 

何度も書いているが

今の生活のベースにはメルカリがあって

金額より毎日最低1個売れて発送できると安心できる。

 

少しずつ手元のモノがなくなっているという実感が欲しいのかもしれない。

 

売れないと焦って新しいモノを出品するのだが

昨日は全く反応がなかった。

 

こういう日もある・・・

 

諦めかけていたら深夜に一つTシャツが売れた。

 

かなり昔、香港に旅行したとき露店で買ったものだと思う。

たんすの引き出しの奥に眠っていたもので

未使用だがサイズがMだからもう着れないのは明白だし

買ってくれてホッとした。

 

最低1個クリアーして今日は穏やかな朝のはずだったが

外出する準備をしていたらコメントがひとつ入ってきた。

 

購入の知らせは無条件で嬉しい。

しかしコメントの場合はちょっと気が重い。

 

間違いなく値引き交渉だ・・・

 

思った通りで

480円のマウスパッドを400円にできないか?

というものだった。

 

私の感覚では値引き交渉する人の大半は女性だ。

コメントの内容も100円以下の小さい値引きが大半。

 

男の場合失礼なダンピングもあるかわりに

丁寧にやり取りしてくることが多い。

 

欲しいのか欲しくないのか?

  

好意的に書くなら

自分で買うならこれ!という価格の感覚で少し開きがある、

ということなのかもしれない。

 

でも100円以下の値引きだから

買う気になっているので少し値引きしてください、

という軽い感覚なのだろう。

 

さてどうしたものか・・・

大人の対応をすべきか、

と結構アタマを使うし、悩む。

 

大きな値引きなら間をとってこれでいかがですか?

と再提示することもあるが

100円以下なら受けるか、断るかだ。

 

今回キャラクターが入っているので

他のモノとセットなら値引きしますよ、

と返信することも考えた。

 

しかし、100円以下の値切りにあまり考えすぎることはキンモツ、

冷静になってこの値引きを受け入れることにした。

 

今・・・何となく

スッキリはしていないが

ホッとはしているヘンな気分だ。

 

いくらでも値引き交渉は受け入れる、

モノが処分できるならそれでいい、

と思えたら簡単かもしれないとつくづく思う。

 

メルカリにはいろんな出品者がいる。

売り切り率が高い人はどこか価格について割り切っているような感じがする。 

その根底にはリサイクルショップで引き取ってもらうなら

これでもいい方だ、というようなものがあるのだろうか?

 

しかしまだ私はそこまでなれない。

 

それがどうしてなのか、まだ自分でもあいまいにしている。

 

ということで在庫率は大きく改善されておらず

価格は全体的に高いのは自覚している。

 

あえて言うなら

もう少しメルカリを通じて人生について学ぶというか

自分と向き合う必要があるということかもしれない。

 

 

 

また始まる1週間。

7時半を過ぎてからやっとスイッチが入った。

 

どうしても8時前にそこに着きたい。

そのためにはできたら7時45分より前にマンションを

出なければ・・・

 

朝食を急いですませ、

高血圧の薬を飲んでからゴミ出しの後、

車で出発。

 

まだ夏休みなので登校する子供がいないのが助かる。

 

急いではいるが、安全運転に細心の注意を払う。

 

商店街を抜けてそこに着くまでには

線路といくつかの信号があるのだが

今日はうまく越えられた。

 

8時前に何とか到着。

 

既にそこには「産直野菜」の旗がなびいていた。

 

とりあえずホッとする。

 

キュウリ100円。

ピーマン100円。

なす200円。

 

元気のいい野菜がいい感じで袋詰めされている。

その中から大きさや光沢を確認しながら

買うものを素早く決めた。

 

産直の新鮮野菜が破格の値段で買えるから

朝まずここに向かう。

 

7月の下旬まであったトマトが200円で

それも美味しかったが、

既に終わってしまったようだ。

 

無人なので料金を箱に入れて車に乗り込むと

すぐ近くに一台の車が停まった。

ワーゲンから一人の婦人が財布を手におりてきた。

珍しくこちらに会釈をするのでこっちも笑顔でかえす。

こんなことは珍しい。

いつもは一目散に走ってくるオバサンに辟易しながら

小さな戦いがあって勝ったり負けたりなのだ。

 

早くマンションを出て良かった・・・

 

何とか朝の目的達成。

 

それからまた急いでいつものファーストフードを目指す。

ここも少し時間がズレてしまうと

目当ての席が埋まってしまうのだ。

 

東京は人が多いし、ちょっとの差が大きい。

 

そこに着いて席を確保してからパソコンをあけ

珈琲を一口飲むと

やっと朝の緊張感から解放される。

 

・・・・・

 

 月曜日だ。

また1週間が始まる。

 

あと2週間で8月も終わる。

 

先週あたりから夜散歩しても風があってかなり涼しく感じられてきたし

明け方もかなり温度が下がっている。

これは台風のせいなのか?

それとも8月も半ばを過ぎるとこうなるものなのか?

東京で過ごす初めての「無職の夏」なのでよくわからないが

少しずつ季節も動いているのだろう。

 

8月を過ぎたら9月は前半東京を離れるし

11月になると友人との旅行もあるので慌ただしくなる。

1年はこのままあっという間に過ぎるだろうのだろうか。

 

まだそんな自分に慣れていないが

時間だけはどんどん過ぎていく。

 

月曜日の朝決まって感じていた憂鬱な気分も

今はさすがにない。

 

サラリーマンでいる限り、

歳をとってもそうなんだな・・・といつも思ってたのが懐かしい。

 

それから週末までの平日を過ごすわけだが

いくつか予定がある分だけ週末は遠くに感じられる。

 

今はそれがない。

 

週末まで平たんな道が続いてそこに大きな障害がないから

比較的穏やかな気分でその道を歩いていくことができる。

 

どこまでそれが続くのか。

その先に何があるのか。

果たして手持ちの金で最後まで歩き続けることができるのか。

 

わからない。

 

でもとりあえずこの道を引き返すことはできないし

何かに出会うためにも

朝入れたスイッチをまた明日も入れるしかないのだろう。