人生は再生の物語である。

59歳無職から還暦のリアルへ。

田舎の深い哀しみ

 

先月、実家の町にある、ただひとつのスーパーが閉店した。

 

この話を聞いたのは昨年末だったが、

いっしゅん目の前が暗くなった。

 

2階建てのスーパーはあるときから1階だけの営業になっていた。

 

雨漏りがひどくなり、

建物全体の老朽化が進み維持できなくなったというのが

閉店の理由ではあったが、

既に階段で2階に上がれるだけの客もいなくなっていた。

 

1階も客はまばらで、置いている商品もどこか元気がなかったし

レジの前の店員はいつも暇そうだった。

 

それでも

その町に住む年老いた住人にとっては大切な場所だったから

客が途絶えることだけはなかったが、

やがて息絶えようとしている空間はどこか寂しそうだった。

 

私は18歳でひとり町を離れ、東京に移り住んだ。

 

田舎の風景は次第に忘れていったが

帰省するたびに

色褪せたこの建物に入ると

それだけでホッと安堵した。

 

買い物をする当たり前のことだけで

遠い思い出がまだ心のどこかに残っていることを

確認する作業でもあったような気がするのだ。

 

半世紀も前になるが

このスーパーができたときのことははっきり覚えている。

 

そこに行くのが楽しくて、わくわくしていた。

 

にぎやかで、他とは違う、

はなやかな大人の世界に入っていくことが許された

初めての経験かもしれない。

 

その頃、町には魚屋も肉屋も八百屋もあったけど

同じものでもそこにあるものは、少しだけ高級に見えた。

 

 そこにはテレビで見たお菓子やチョコレートだけでなく

まだ知らないもの、買いたいものがたくさんあった。

 

駄菓子屋で買うものとは明らかに違った

キラキラしたパッケージを手にするだけで楽しかったし、

田舎で初めてみる都会を強く感じた。

 

あこがれ、でもあった。

 

自分が大きくなればそこで好きにだけ買うことができる。

 

大人になれば。。。

 

まだ小さいころの私はそう思っていた。

 

町も時代も輝いていて

人があふれていたし、

会話や笑顔が通りを行き来して

冷たい風もさわやかだった。

 

あの日から何十年もの時が流れ、

そして、多くの人がいなくなった。

 

ふと思う。

 

あのとき確かにあった明日という日に

自分を重ね合わせて過ごしていたあの思いは

いつの日からなくなってしまったのだろう。

 

人は思い出の中に生きることはできない。

しかし、それがないと生きていくこともできない。

 

遠い日の感情も思い出も今のかけがえのない自分のものだからだ。

 

人も亡くなり

モノもいつの日かなくなって

思い出になっても

またいつの日か新しい風が吹いて

それをどこか遠くに連れていくだろう。

 

町は静かに

そして息をひそめて

それを見守るだけだ。