人生は再生の物語である。

59歳無職から還暦のリアルへ。

生き抜くことの大切さと難しさ

神保町の『いもや』が今月末で閉店するという。

 

私にとっての神保町は

昔から通うとホッとする東京の街で

その佇まいが

懐かしい昔の思い出をやさしくつつんでくれる

数少ない場所である。

 

書店だけでなく、おいしい店も多い。

 

『ランチョン』

『北京亭』

スヰートポーヅ

『ボンディ』

キッチン南海』・・・・

 

古くから食べているメニューも多いから

いつもどこに入るか迷うのだが

この『いもや』もその一つであった。

 

閉店の理由はいろいろあるのかもしれないが

店主が高齢になると体力の問題もあるだろうし、

利益の薄い店を引き継いでもらうことができない、

結果的に続けていくことが難しくなった、

ということなのだろう。

 

店を続けるには、

どうしても

次の世代で引き受けてくれる人がいることが前提だ。

 

しかし、どんなに客が多い店でも

かつてほど利益が出ていないのが実情だと思う。

 

今のように野菜など高騰すれば仕入れ価格が高くなるし、

長時間労働を制限されると人を増やすしかないが

そうなれば当然利益を圧迫する。

 

それを解決するには

いわゆるチェーン店のように

商品開発や価格などに大きな競争力があるところでないと

立ち行かなくなっている。

 

しかも

大手のそれは半端ない努力をしているから

個人で戦うには限界があるだろう。

 

価格に敏感にならざるをえない

消費者側の切実な問題もある。

 

価格破壊によって

安い店、安いメニューが普及しはじめると

かつては当たり前の値段だったものが

高く感じられることもある。

 

時代の気分というものがある。

そして、その大きなうねりは避けられない。

 

そんな状況においては

たとえ身内がいても継がせることができない、

だから辞めるしかない、という苦渋の選択をせざるをえないのだろう。

 

そうやって、これからも

古くから個人でやっている店は

少しずつなくなってしまうのだろうか。

 

私が住む町の商店街も古い店がなくなり

あっという間に

チェーン店の数が増えた。

 

最初はチェーン店もコンビニもまだ珍しい時代があったのだが

いつの間にか商店街の主役のようになっている。

 

誰もが知っているブランドの店、チェーン店は

安心感こそあるものの、

次第にその町の個性を奪っていく。

 

やがてその沿線のほとんどの商店街が

かわりばえがしない

似たような表情になっていくのだろうか。

 

 もう一つ歩いて行ける商店街がある。

 

その商店街は

逆に

チェーン店もないかわりに

空き店舗ばかり目立つ

空虚な空間になりつつある。

 

いつ立ち寄っても

 そして

残されて営業している店の中をのぞいても

客がいるときが少ない。

 

なにより人が歩いていない。

 

時の流れの中で

何かに見放されてしるのか

静かに息をしながら

ただ生き延びているような光景は

寂しさをすでに通り越してつらいものがある。

 

いずれも簡単に受け入れたくないと思うものの

小さい頃から

ファーストフードに慣れ親しんだ新しい世代にとっては

私と同じように

チェーン店の光景や味がやがて原風景となっていくのだろうし、

また新しいチェーン店が古いチェーン店を駆逐していくのかもしれない。

 

それが時代というものなのだろうか。

 

ただ、

いいことばかりではなく

痛みもともなう

生き抜くことの大切さと難しさを

改めて

ひしひしと感じる。

 

時代はときとして残酷な風景を

見せつける。

 

それが現実だとしても

そして

抗えないものだとしても

素直に受け入れられなくなっている自分がいる。